難波田城公園が百人一首の世界に <テレビロケがありました>
最終更新日:2019年1月25日
平成23年12月13日,15日に、難波田城公園でテレビのロケ撮影がありました。
その様子と放映予定をお知らせします
- 放映日時
2011年12月31日(土曜日) 午前10時~11時25分 テレビ東京系「歴史スペシャル ~ニッポンの心~ 百人一首の世界」(制作:テレビ大阪)
- 撮影内容
百人一首でよまれた歌の情景、百人一首がたどった歴史を紹介しながら、当時の生活背景や恋愛事情を探ります。
旧金子家住宅のほか、園内各所で撮影しました。
- 難波田弾正と松山城風流歌合戦
小倉百人一首に、清原元輔(きよはらのもとすけ。清少納言の父親)がよんだ、次の歌が収められています。
ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ
末の松山 波越さじとは
[約束したよね 涙に濡れた袖を絞りながら
末の松山を波が越えることはないと]
この歌は、古今和歌集に収められた次の歌を元にしています
君をおきて あだし心を 我もたば
末の松山 波もこえなん
[君以外の人に 心を動かしたりしたら
あの末の松山を 波が越えてしまうよ]
約束を守りきれない人間の弱さを見つめたのが、平安歌人でした。
時は移り、戦国時代。難波田城の城主と伝えられる難波田弾正(なんばただんじょう)が、合戦で劣勢となり松山城(現吉見町)に退却しようとすると、敵方の武将が和歌で呼び止めました。
あしからじ よかれとてこそ 戦はめ
など難波田の 浦崩れ行く
[悪しからず良いと思って戦ったのだろう。
なぜ難波の浦の波のように引いていくのだ]
弾正も歌を返し、そのまま城に入りました。
君をおきて あだし心を 我もたば
末の松山 波もこえなん
[主君をほおっておいて他の人を相手しては
末の松山を波が越えてしまうよ]
これは江戸時代の軍記物語に登場した話で、史実とは思えませんが、弾正がすぐれた武将と評価されていたからこそのエピソードです。
難波田弾正が返した歌は、古今和歌集に収録された歌そのままです。恋人への誓いを、主君である扇谷上杉氏への忠義に読み替え、「末の松山」を最後の拠点である松山城に重ねたのです。
かつての日本人にとって文化的な素養とは和歌でした。軍記物の作者は、このような歌の世界の広がりを読者が連想することを期待したのです。
ところで、末の松山の歌については、近年、自然科学の分野から新たな解釈が呈示されました。
この歌は「みちのく歌」で、宮城県多賀城市に「末の松山」の最有力推定地があります。10数年前から、仙台平野などの地質調査により、貞観(じょうがん)11年(869)の大地震が岩手県~福島県の沿岸に巨大な津波を起したことが実証されました。地質学者や国語学者たちは、この津波の記憶に基いて、末の松山の歌が生れたと推測しました。多賀城市の「末の松山」推定地は、海岸から3列目の砂丘で、貞観の大津波は越えなかったこともわかりました(今回の大津波でも同様でした)。その末の松山を波が越えるとは、どれほどありえないことなのでしょうか。
軍記物の作者は、この歌が津波に由来するかもしれないとは、思っていなかったでしょう。しかし、歌合戦での弾正のふるまい(目先の事にとらわれず、逃げることを優先する)は、津波の危険があるときの行動原則に一致しています。たとえ偶然の一致でも、そのようなイメージを重ね見ることで、物語の世界が広がっていくようです。
*このエピソードについて、詳しくは『難波田城だより』第49号(2011年9月発行)で紹介しています。